【創作】ケンちゃん

「寂しいとか、よくわかんねえんだよなぁ」

 ケンちゃんは未知の生命体だ。寂しがりのわたしと、孤独を愛するケンちゃんをつなぐもの、本と、旅と、映画、とりとめのない言葉遊びのような議論と、ストロングゼロ。
 わたしよりも白いケンちゃんのすべらかな肌。細い脚。猫のようにわたしの肩の上に頬を乗せて眠る。わたしの唇にはあかくのる、ぶどう色の口紅をつけてケンちゃんにキスをすると、うんと白い顔に紫がうつって冴え冴えと光る。彼は困ったように口を拭う。わたしは気にせず、なんども口紅をつける。触れあっている間は、世界でいちばん幸せだった。
 寝起きの悪いケンちゃんはぐおお、とうめき声を出しながら、いつも寝返りを繰り返す。チェックアウトは延長して、まどろむのがお約束だった。
 わたしは幸せなときほど、怖い夢をみては泣きながら起きる。その時、隣にはケンちゃんがいる。

「おいで」

 抱きしめてくれるから、わたしは大丈夫。

「好きよ。とても。ケンちゃんのこと」
「おれも、好きよ」

 好きと言ってくれるから、わたしは大丈夫。
 二人でバスに乗って、熱海に行った。わたしの肩に頭を乗せて眠る彼を、こっそりと撮った。

「次の更新の時さ、ケンちゃんと一緒に住みたい」
「いいね」
「一緒に住んだら、コーヒー淹れて、本読んだり、鍋したりして過ごそうよ」

 熱海の渚町を手を繋いで歩いた。酒屋でビールを買って、路地を歩き回って、遊郭の跡地を探した。秘宝館でさんざん笑ったあと、あいじょう岬で絵馬を書いた。なんとなく、ずっと一緒にいたいとは、書けなかった。ふたりでそれぞれのことを書いて、夜は昭和から取り残されたような貝殻のベッドのモーテルに泊まった。そのうち一緒に住んだら大きな声出せないから、静かにする練習ね、そう言うときだけケンちゃんは少し意地の悪い顔をした。
 熱海から帰らなければよかった。
 わたしは時々、わたしでいられなくなる。寂しさに取り憑かれると、ケンちゃんの好きなわたしじゃなくて、餓鬼のように、愛して愛してと泣き叫んで止まらない。

「わたしのこと、大事じゃないの」
「大事じゃなかったら電話しないよ」

 ケンちゃんは結局、わたしと一緒には住まなかった。身内と一緒に住むことがとても苦手だと言っていた。家族を持ちたくない、人は一人で生きて死ぬものだから。スナフキンみたいなことを言うケンちゃんの新居に遊びに行くと、実家から届いたという自家製の梅干しや缶詰が台所に並んでいる。

「ケンちゃんには帰る場所があるから、家族なんていらないって言えるんだね」
「よくわかんねえんだって、そういうの」

 差し入れに持っていったストロングゼロにケンちゃんは手を付けないで、最近はお茶割りなんだよね、と緑の缶を空けていく。いつまでも酔っ払っているのはわたしだけだった。
 ギターを弾くケンちゃんの膝にむりやり頭を乗せる。ケンちゃんはおかまいなしに音を鳴らしている。

「あたしさぁ、一人暮らしさみしいよ」
「そうなのか」
「なんでケンちゃんは寂しくならないの」

 ケンちゃんは表情の豊かな方ではない。でも、わたしを心底好きという目で見なくなったことは、気づいている。

「だからおれ、わかんねえんだって、寂しいとか、そういうの」
「ぐおお……」
「なんかそれ好きだよね、ぐおおって言うの、口癖」

 好きなのは、口癖のほうじゃないのに、ケンちゃんは、わたしと過ごしたことも、少しずつ、少しずつ、遠いものにしていく。

「付き合うとか、そういうの、おれやっぱ無理みたい」
「……熱海で、死ねばよかった、あたし」

 泣くわたしを、ケンちゃんは理解できない。酔っ払っているからと、布団まで丁重に案内された。
 線路のそばに建つケンちゃんのアパートは、始発が出ると轟音で揺れる。ケンちゃんは隣で眠らずに、朝までずっと本を読んでいた。

「怖い夢、みた……」
「帰れる? おれ昼から仕事だから、寝たい」
「……そっか」

 帰り際、わたしは半ば無理矢理にケンちゃんにキスをした。泣いてかさかさの唇からはなにもうつらなくて、ケンちゃんは気分じゃないのに抱き上げられた猫のような顔をしていた。

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